2026年3月30日 10:47
麻雀がいつ、どこで生まれたのか。正確なことは、実は誰にもわからない。
最も有力な説は、19世紀半ばの中国・長江流域。清朝末期の混沌とした時代に、紙牌(マーディアオ)やドミノ系の遊戯が融合し、竹と骨でできた136枚の牌を使う「麻雀」が姿を現した。当初は上流階級の応接間で楽しまれる高尚な遊びだったが、やがて茶館や路地裏に広まり、庶民の娯楽として中国全土に根を下ろした。
「麻雀」という名前の由来にも諸説ある。牌を卓上で混ぜる音が雀(すずめ)のさえずりに似ていたから、という説が最もよく知られているが、確証はない。ただ、この名前の音の柔らかさが、ゲームの敷居を下げたことは間違いないだろう。
麻雀が日本に伝わったのは、明治末期から大正にかけて。ルートは主に二つ。中国に駐在した日本人ビジネスマンが帰国後に広めたルートと、中国の港町を訪れた船乗りたちが持ち帰ったルート。いずれにせよ、最初に麻雀にハマったのは「海の向こうを知る人々」だった。
1924年、東京・芝に日本初の麻雀クラブが開設される。ここに集まったのは知識人、文化人、そして好奇心旺盛な若者たち。菊池寛は麻雀に夢中になり、文藝春秋の編集室で牌を握っていたという逸話が残る。織田作之助も麻雀を愛した文士の一人だ。「文士の遊び」──その知的なイメージが、麻雀を日本社会に受け入れさせる触媒となった。
日本の麻雀が中国麻雀と大きく異なるのは、「リーチ」「裏ドラ」「一発」などの独自ルールが加わった点だ。これらは昭和20〜30年代にかけて徐々に定着した。
特にリーチは、麻雀というゲームの性格を根底から変えた大発明だ。門前で手を揃え、1000点を供託し、宣言する。この一つのアクションが、攻めか守りかの駆け引きを格段に奥深くした。中国麻雀にリーチはない。これは純粋に日本の文化が生み出したルールであり、日本の麻雀が「リーチ麻雀」と呼ばれる所以でもある。
昭和30年代にはドラ制度も導入された。偶然性と逆転の要素が加わり、初心者でもベテランに勝てる可能性が生まれた。この「実力と運のバランス」こそが、日本式リーチ麻雀が老若男女に愛される最大の理由だ。
昭和40年代から50年代にかけて、日本は空前の麻雀ブームを迎える。全国に数万軒の雀荘が立ち並び、サラリーマンは仕事帰りに雀荘に寄り、学生は徹夜で麻雀を打った。「付き合い麻雀」という言葉があったように、麻雀は社交の道具であり、コミュニケーションの場だった。
この時代の空気を最も鮮やかに切り取ったのが、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」(1969-1972年)だ。戦後の焼け野原で博打に明け暮れる若者たちの姿は、当時の読者に強烈な共感と憧憬を与えた。色川武大という純文学の名手が「阿佐田哲也」というペンネームで書いたこの作品は、麻雀を題材にした文学の最高峰として今なお読み継がれている。
平成に入ると、風向きが変わる。テレビゲーム、インターネット、カラオケ──娯楽の選択肢が爆発的に増え、若者が雀荘に足を運ばなくなった。賭博としてのイメージ、禁煙化の波、不景気。複数の逆風が同時に吹き、雀荘の数は年々減少していく。
「麻雀=おじさんの煙たい遊び」。このイメージが定着した平成の20年間は、麻雀にとって長い冬の時代だった。プロ雀士は存在したが社会的認知度は低く、「麻雀のプロ」と名乗ることに引け目を感じる時代ですらあった。
その冬を終わらせたのが、二つの革命だった。
一つ目は、2018年のMリーグ発足。サイバーエージェント、KONAMI、セガサミーといった大手企業がチームオーナーとなり、プロ雀士が企業の看板を背負って戦う。全試合がABEMAで無料配信され、麻雀は「する」ものから「観る」ものにもなった。プロ雀士という職業の社会的地位が、一夜にして変わった。
二つ目は、オンライン麻雀の普及。特に2019年にリリースされた「雀魂(じゃんたま)」は、美麗なキャラクターとSNS映えする演出で若年層を一気に取り込んだ。VTuberや配信者が麻雀を配信コンテンツとして取り上げたことで、10代・20代のプレイヤーが爆発的に増加。「麻雀=古い」というイメージは完全に過去のものとなった。
約150年前に中国の卓上で産声を上げた麻雀は、海を渡り、日本で独自の進化を遂げ、冬の時代を経て、令和の今、かつてないほどの輝きを放っている。あなたが今この瞬間に麻雀に触れているのは、この長い物語の最新章に立ち会っているということだ。